姑の供養

嫁の気持ち、姑の気持ち

誰にも迷惑をかけたくないの。

そう何度も言っていた姑は、その言葉の通りに亡くなった。91歳。

ピンピンコロリとは理想的な最期で全高齢者の憧れと言っても良いと思う

ここ1年くらいはピンピンとまでは言えなかったが、最後まで自宅で自分の思うように一人で暮らした。
料理上手な人だったが、今までとちょっと味付けが変わったと感じるものがいくつかあって、それが色々とこれ迄通りにはできなくなった、というサインだったなと今となっては思う。

以前NHKの朝ドラ「半分青い」の中でヒロインの「すずめ」のおじいちゃんが、すずめと自宅の縁側で気持ちよさそうにうたた寝をし、そのまま眠っているうちに亡くなるというシーンがあった。
その時の反響はなかなか凄かったという。私も「こんなに楽に死ねたらいいよね~、これ以上の幸せな死に方ってないよなぁ」と観ていた。
どれ程多くの人が、とりわけ高齢者が羨ましく思っただろうか。

痴呆症になって、自分の身の回りの事ができなくなったり、徘徊や様々な症状で家族に迷惑を掛けることは誰だって本意ではない。
そして終わりの予測ができない介護の生活は、家族にとっては本当にしんどいし経済的な負担も大きくなる。

以前YouTubeで、自宅での介護を諦めた方が良い見極めのポイントについて医師が解説しておられた。
1、 深夜の徘徊
2、 異常な長風呂
3、 火を使うことに拘る

どれも、危険で命に関わり家族は目が離せなくなるため疲弊する、というのが理由らしい。

家族は知らず知らずのうちに頑張って無理をしてしまう。
高齢者本人も家にいたいし、他人の世話になるのは嫌だと言う気持ちがあるだろうし、家族もどこかで他人に任せることの罪悪感から先延ばしにしてしまう。

結局皆が苦しんで我慢して辛い生活となる。

そこを通らねば死ねないのだとしたら、長生きなんかしたくない、と誰でも思う。
でも、思うように死ねるわけではない。

そう私も思ってきたけれど。
人は生きてきたように死ぬし、何度も思い描いたように逝くのではないか
と思うようになった。

姑は口癖のように「もういつ、トンころっと逝ってもいい」と言っていたから。

もっと会いに、手伝いに行けば良かったごめんなさい、という気持ちを伝えることができない
これ迄の感謝の気持ちを伝える事もできない
もう何も伝えられなくなったことがやっぱりとても悲しく寂しい。

ピンピンコロリは本人は良いかもしれないが
家族は心の準備ができていないし、突然の事で後悔が大きくなるという弊害がある。

結局理想の死に方なんてない。

「すずめ」だってじいちゃんが亡くなってどれ程悲しかったかわからない。

死ぬって、この現世では
会えなくなること、姿が見えなくなること、伝えられなくなること。

だから、生きているうちにたくさん伝え合う事はとても大事。

今度、またそのうちね、また今度ね。

そう思っていても、その「今度」がちゃんとくるかどうかはわからないから。

後悔のないように生きよう。

これからは、「また今度」がなくても悔やまない様に。

四十九日迄は七日毎のお勤めをする。お寺でお経はあげて貰い、自宅では私が預かってある七日毎のお塔婆を1本ずつ線香にかざしていぶすようにして、と住職から教えていただいた。

身体は荼毘にふされても魂としての存在は残る
という考え方を私は採用しているが
供養をしていく中で、姑の晩年の想いに気づきそれに寄り添い、私の気持ちも伝えていきたいと思っている。

きっと今だってちゃんと繋がっていると思うから。

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