姑のお喋りはエンドレス~9対1で嫁の負け

嫁の気持ち、姑の気持ち

姑はとてもお喋りが好きだった。もうそれが聞けなくなって正直寂しい。今は、ちょっと美味しいお菓子とか、季節の果物とかを買ってくると、まず仏壇にお供えすることが私の習慣となった。
舅と姑はお寺で永代供養をお願いしてあるので家の仏壇にお位牌はない。
仏壇には早く亡くなった私の夫のお位牌があるだけだ。
でも、仏壇に姑の写真を飾ってあるからそれで不自由はない。

線香を上げて、手を合わせていると私の手のひらはハッキリと温かくなる。
コレってなんやろ?なんの現象?っていつも思う(笑)不思議。
手のひら、こすったりしてないよ・・・(笑)
きっと「ありがとう」と私に伝えているのだろうなぁ。
と思っておけばいいよね?

そして「ありがとう」の後は
「もう私のことはいいから、美味しいうちに早く食べなさいよ」
と言ってくれているような気がする(笑)
ハーイ(^^)/

姑は小学校の先生をしていた。
私が嫁に来た当時はもう既に退職していたが、定年間際まで長らく勤め続けたので人生の大半を先生として過ごした人だ。
昭和7年生まれの姑は、子供の頃は軍の看護婦になることに憧れを抱いた軍国少女だったそうだが、戦争が終わってその夢は儚く消えた・・・(^^;

勉強が好きだったそうで、終戦後間もなくの頃「女が上の学校まで行くなんて」と反対にあいつつも、先生の勧めで大学まで進学し教員となった。
この「私が先生になるまで」のとても長い話の詳細は、姑から散々聞かされたエピソードで私はこの先ボケても忘れない自信がある(笑)
姑のお気に入りのその話「私が先生になるまで」は、幼少期の戦時中や疎開の体験も加わって私とのお喋りの中でしょっちゅう繰り返し語られた。再生回数100万回超えの勢い(笑)

長いこと先生だったからか、ずっとしっかりとして、しゃっきりとしてボケることはなかった。
90歳近くなってもデイサービスのことを
「あんなところに行って、何をやらされるの?たわけらしい、絶対に行きたくない」
と容赦なく言っていたのもごもっとも。結果、介護保険制度の利用もナシ・・・(^^

出先ではどこに行っても「あら~、先生」と誰かに声をかけられることも多かった。
かつての教え子、教え子の親さん、一緒に働いた先生方など長く勤めていたのでどうしたって顔が広い。

そんな時、姑は驚異的な記憶力でかつての教え子のフルネームを言い当てた。
「あぁ!○○○○さん!○○小学校で3年生の時に受け持ちだったわねぇ」などと嬉しそうに話し始める。

姑が亡くなる間際までずっと通院していた眼科の先生も姑の教え子で、診察で顔を合わせる度に
「もう私のことを、先生と言わないで。今はあなたの方が先生なんだから!」
と毎度同じことを言って笑っていたようだ。

けれど女性が仕事と家事、子育てを両立すること、それ自体がまだ珍しい時代にフルタイムで働き続けることは苦労が多かったと思う。

私の夫は幼い頃、人気(ひとけ)のない早朝の保育園の門の前で一人置いて行かれていたらしい・・・
イマドキでは考えられないような話だけれど、
「もうすぐ誰かみえて鍵があくから、それまでここで待っていなさいよ」と言い残して姑は仕事に向かったそうだ。

「まぁ、何もかも本当にめちゃくちゃだった。テストの丸つけをたくさん持って帰って、丸つけが終わってから、夜中のうちに洗濯物を干して。冬場は干したそばから洗濯物がばりばりに凍ってねぇ」
と、苦労話はいくらでもあってそれも何度も聞いたっけ。

姑の弾丸トークは「お喋り好き」の域を遥に超えていて、衰えることは最後までなかった。
私とだと8対2の割合で姑は喋り倒す・・・時には9対1になることもあった・・・(^^;

動画に撮っておいたらよかったかなぁ?(笑)
いえ、あれはLIVE感が大切。
いつも生き生きと喋っていた。
だから先生という仕事は姑にとってきっと天職だったのだろう。
今は誰とお喋りを楽しんでいるのかしらん。ま、私くらい聞き上手な嫁はそういないっしょ(笑)

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